「海に降る」 朱野帰子

 聞くところによると、宇宙に行った人間より深海に行った人間のほうが少ないそうです。
 宇宙には数ヶ月間滞在することができるけれど、深海にいられるのは8時間ほど。水深6,000m付近まで潜るとすると、往復だけで5時間かかるそうなので、活動できる時間はわずか3時間ほどしかありません。
 深海が宇宙より遠いと言われる所以です。

 本作は有人潜水調査船「しんかい6500」のパイロットを目指す女性が主人公の物語。
 JAMSTEC(海洋研究開発機構)監修でドラマ化もされ(WOWOWだったので私は見ていませんが)、主人公の天谷深雪を演じた有村架純ちゃんが表紙を飾っております。

 かつて、テレビ番組の企画で「しんかい6500」に乗り、深海に行ったタレントの中川翔子ちゃん(以下しょこたん)を心の底から羨ましく思い、「このまま死んでもいい」と言った彼女の気持ちが物凄くわかる程度には私も深海好きですので、本書は興味深く読みました。

 プロローグは幼い深雪と「しんかい6500」の開発に携わった父の微笑ましい深海トーク。
 しかし、長じてJAMSTECのパイロット候補となった深雪の身の上は、ほぼ天涯孤独になってしまっています。両親はずいぶん前に離婚していて、母はすでに他界。父は渡米して再婚しており、深雪の出した手紙に返事がくることはないという、何だか不穏な状況です。

 日本初の女性コパイロット(副操縦士)への昇格が掛かった訓練潜航の日、突如として現れた異母弟・陽生(小学生)の存在と、彼が口にした「パパ、もう日本に帰ってこないと思うよ」という言葉に動揺した深雪はあろうことか閉所恐怖症を発症してしまいます。
 「しんかい6500」の内部は定員3名の狭い密閉空間ですから、閉所恐怖症はパイロットにとっては致命的と言わざるを得ません。

 そしてもうひとり。
 広報課職員の高峰浩二は、深海生物学者だった父が生前「しんかい6500」で潜航中に目撃したという<白い糸>の正体を突き止めるべく、JAMSTECに転職してきた青年。

 深雪は再び深海に潜れるようになるのか。そして<白い糸>と呼ばれる未確認深海生物の正体は……
 ということなんですが、高峰はともかく、深雪が苦手なタイプで読むのに少し苦労しました。
 鼻っ柱が強いのはいいんですが、閉所恐怖症を発症したあとの職場の飲み会でやけ酒をあおって酔いつぶれる人なのですよ。それも一度ならず二度までも。飲むなと言われているのに飲んでつぶれるって、社会人としていかがなものかと。

 そういう次第で深雪には感情移入できなかったのですが、JAMSTEC監修の下、深海マニアの作者が書いたということで、話自体はとても面白く読めました。
 深海好きでなければ知らないであろう深海生物の名前が普通に出てくるし、JAMSTECがあるのが横須賀なのでその近辺の土地、横浜八景島シーパラダイス近くの海の公園や新江ノ島水族館近くの江の島など、水族館好きに馴染みの場所が出てくるのも嬉しいポイントでした。

 また、JAMSTECの一般公開の様子は現実の話として参考になりました。一般公開では「しんかい6500」の実機を見られたりするので一度行ってみたいと思っているのですが、どう考えても混雑するので、混雑苦手な私は二の足を踏みっぱなしなのです。

 JAMSTECは文部科学省の管轄で、活動には税金が使われています。「しんかい6500」を動かすにもちゃんとした理由が必要です(なのでバラエティ番組の撮影でしょこたんが乗れたのは奇跡らしいです)。
 そこで、世論を味方につけると言うか何と言うか、一般公開は単に活動を広く知ってもらうというだけでなく、そこから一歩踏み込んで、税金の使い途として納得してもらおうというような側面もあるらしいです。

 余談ですが。
 一般公開にタレントでも呼べればいいんだけど予算が……という場面では「しょこたんならきっと来てくれるのに!」と思い、一般公開当日に高峰が起こしたちょっとした騒動が世間に知られたのは、お忍びで来場していた深海好きを公言している女性タレントが動画をブログに載せたから、というくだりでは「ほら、やっぱりしょこたん来てたじゃん」とニヤニヤしていた私です。

 しかし、このように現実に則した物語なので、高峰の父が遺した<白い糸>の想像図が伝説の生物だったときは大変驚きました。
 糸と言うからにはせいぜいクダクラゲの触手部分とかダイオウイカの触腕とか、そうしたものだろうと考えていた私には、「地球ドラマチック」を見ているつもりでいたらゴジラが出てきたような驚きでした。
 いや、これ、本当にこんな生物が存在していたという展開になったらドン引きだぞ……と既にかなり引きながら思ったのです。この物語にファンタジーは不要、と。

 でも。
 こう考えてみたらどうだろう?
 海の95%は深海で、海の95%は未知の領域と言われている。
 水深8,000m付近で新種のシンカイクサウオ(マリアナスネイルフィッシュ)が発見されたのはほんの数年前のこと。
 深海には頭が透明なデメニギスなんて奇妙な魚もいるし、硫化鉄の鱗をまとった巻貝(スケーリーフット)もいる。

 つまり。
 深海には変な生き物がいっぱいいるのだ!
 だから、どんな深海生物が棲息していると予想しても、それを有り得ないと一蹴することはできないのではなかろうか。
 視界10mの闇の中、想像を絶する生物が20m先を横切ったとしても見えはしないのだから。
 そう、深海はロマンの宝庫なのだ。

 と、このように考えを改めたら、面白く読み進めることができました。
 終盤は深雪の性格もあまり気にならなくなりましたし、「しんかい6500」に乗っているような気分も味わえましたし、うん、面白かった。
 深海好きなら読んで損はないと思います。

 ところで、主人公の深雪という名は「深い海に降る雪」つまりマリンスノーのことなのだそうです。綺麗な名前ですよね。でも、マリンスノーってプランクトンの死骸だと思うと……

「しんかい6500」1/2レプリカ(2008年 新江ノ島水族館にて撮影)

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