「家守綺譚」 梨木香歩

 先日、続編の「冬虫夏草」を読んだのを機に約10年ぶりに再読しました。
 「冬虫夏草」を読んでいるときは意外と憶えているような気がしていましたが、いやいやいや、8割がた忘れていました。おかげで、かなり新鮮な気持ちで楽しむことができたのはラッキーだったかもしれません。

 時は明治。
 文士・綿貫征四郎は、亡くなった学生時代の友人、高堂の家の管理を任されることになり、そこで様々な不思議に出会います。

 庭木のサルスベリに懸想され、
 河童の衣や河童そのものを拾い、
 信心深い狸を助け、
 掛け軸を抜け出したサギは庭の池の魚を狙い、
 白木蓮は竜の子を孕み、
 そして、
 亡くなったはずの友人は、床の間の掛け軸の向こうからボートに乗って帰ってくる。

 それらが実に淡々と描かれていくのです。

 高堂はときどき帰ってくるよと告げられた後輩の山内は事もなげに「そうでしょうねえ」「僕も会いたいものだなあ」などと言い、綿貫が密かに思いを寄せていると思われる女性・ダァリヤは「ええ、そう、そういう土地柄なのですね」と応える。
 この雰囲気が本当に素敵で。

 魑魅魍魎が跋扈する平安時代が舞台の小説などを読んでいると、物の怪やら怨霊やら、この世ならざるものたちは実在していて、昔の人たちはそれを普通に見ていたけれど、現代人である我々はそれらを見る力を失ってしまったのではないか、と思うことがあります。
 本書からもそうした雰囲気を感じました。
 明治のころまでは狐狸妖怪もこの世とあの世の狭間も、今よりずっと身近なものであったのかもしれない、と。

 ところで、「冬虫夏草」で綿貫が旅に出るきっかけになった飼い犬のゴローですが、本書ではその出会いからが描かれていました。
 渋々といった体でゴローを飼うことになった綿貫、初めのうちこそ小屋なんか作ってやらないぞと言っていたものの、ちゃっかり作ってやっているし、ゴローが河童を送って行ったきり数日間帰ってこないときなどめっちゃ心配していたし、無事に帰ってきたときには静かに大喜びしていたし、なんだよゴローのこと大好きなんじゃないかよ、という感じでした。
 なのに、なぜ続編では3ヶ月もほったらかしていたの……

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